陰として豪雨

理系浪人生の日記→理系東大生の日記

陸拾参話 虚構=フィクション

なんにもないですね。大学生の夏休み。いや、なんもないんじゃないんですよね、なんもしないその怠惰な意識が悪いんですよね。

夏休みといいつつ、最近は結構涼しい風に吹かれて、具合悪がちっていう人も多いのではないでしょうか。

当方体調のみならず、心の調子も荒ぶりがちなので、今日はどうでもいい思いついたこと書き連ねていきます。

お題は、

 

note.com

っていう回ってきたよそ様の記事です。

まず、この記事自体が結構長くて、しかもなんか難しいんですが、意識高いとか意識低いとかそういうことについての考えを書いている記事になっています。要すれば、UT-BASEという学生団体が、みんなが思っているような「意識高い(系)」の団体ではないんですよっていうPR活動の一環のようで、「意識高い集団」っていうのは虚構だとかなんだとかいうことが書かれています。

意識とは何か?

上の記事によれば、「意識高い系」とは、知識というアセットをうんぬんかんぬんぴーちくぱーちく(略)する、ちょっと意識低い人間からすると理解し難い方々のことらしいのですが、筆者のまわりには、こうした「意識高い系」の人はいないらしいのです。それはまあよかったねって感じなんですが、そこ(身の回りに「意識高い系」がいないこと)から筆者は、「意識高い系」という概念は幻想・虚構なのではないかという問題提起をしています。

身の回りに「意識高い系」がいないからといって、それ自体が虚構なのではないかと思い当たるのはいささか突飛だなーとか思うんですが、そもそも、ここでいう虚構っていうのはどういうことを指しているんだろうなとか思いました。一応筆者は、「意識高い系」を上のように定義しているわけで、その定義に合致すると考えられる人間が存在している場合に、「意識高い系」は虚構とは言えないのではないかとか思ったり。

集団内の人間というもの

筆者は「意識高い系」が苦手だと言っていますが、記事中の「気になる人は「教育臨床心理学」や「心理」の講義を履修するか、フロイトの「自我と防衛機制」なんかを読みましょう。」とか「《人間は、自分が所属する集団に自らのアイデンティティを求めるとき、自集団に対する批評は、集団に属する私個人に対する批評であると考える》です(Henri Tajfel and John Turner)。」とか「内集団バイアス(in-group bias)」とかいうのが、もうすでに「意識高い系」っぽいんだよなーなどと。意識低い東大生は思いました。

実例:「まじめ」を巡る対立

記事では、「意識高い系」と「普通の人々」という二つの集団に分けて、それらに集団間バイアスの理論を適用し、色々考察していきます。まあ、「普通の」っていうのが刺さるんですけどね。「低い」と言わない配慮なのかもしれませんが。

SNSの登場が、集団バイアスの作用によって分断された「意識高い系」と「普通の人々」の対立を固定化したのではないか、という所感も書かれていましたが、これについてはなんでかよくわからないのでよくわかりません。

「意識」の相対化

「でもちょっと待ってください。今、意識が高い・低いという基準で集団を分けましたが、その分ける基準は何でしょう?」

ん?

その基準は、筆者が先に述べた「知識というアセットをうんぬんかんぬんぴーちくぱーちく(略)する、ちょっと意識低い人間からすると理解し難い方々のこと」という定義なのでは?

と思ったら、筆者としてはこの定義に当てはまる個人は存在しても、その集団は存在するかわからないと主張しているようです。

まず、集団が存在するか否かをどのように決めるのかっていう問題はあると思います。記事の筆者の「現状としては、どうやら2つの集団があるとされています。そして、実際にその2つの集団間で対立が顕在化しています。」という認識にのっとると、世の中に顕在化している集団を存在しないと論じるのはなかなかアクロバティックではありはしませんか。

それでも「意識高い系」は存在しないというのならば、カルロロヴェッリとかマルクスガブリエル的なあれですかね。深い。

それに加えて、定義では、たしかに集団であることを要請していませんが、「意識高い系」の活動がカタカナ語のコミュニケーションとかコミットとかを含んでいることから推察するに、一般に単独行動でなされるものではなさそうです。つまり、定義にあてはまる人は複数人で活動することが十分に想定される、というかそっちの方が自然なので、個人の存在を認めつつ、その集団は存在しないというのは無理があるかなとか思ったり。

また、外集団同質性バイアスによって、「意識高い系」の個人の行動を「意識高い系」の集団の性質に帰するということを、「意識高い系」の集団が虚構であるという根拠にあげていますが、このロジック謎です。「意識高い系」の集団の存在が認識されていなければ、外集団同質性バイアスは作用しないはずなので、バイアスの作用に先立って「意識高い系」の集団は認識されているはずでは。つまり、一部の人の極端な行動をみて、集団をひとくくりにするということが起こり得ても、それはその集団が虚構か否かには無関係なのでは。

そして、その虚構の集団、その先の対立を創り出しているのは、まさに、先程紹介したメカニズムではないのでは。

ていうか集団間の対立は存在していますとか二項対立は虚構だとかどっちやねん。

「意識」は相対であり多様ってなんやねん。意味わからんわ。宗教か?

「意識高い」は【結果】ではなく【感想】

筆者は、「意識高い」とは結果ではなくて一生懸命頑張る姿勢だという風にまとめていますが、それってあなたの感想ですよね?

「意識高い(系)」が存在するかどうかは、その定義をある程度定めないと論じられなくないすか?「意識高い」が一生懸命頑張る姿勢なのではなく、UT-BASEが目指す「意識高い」が一生懸命頑張る姿勢なだけなのでは?

「そこでわざわざ「意識」という対立軸を持ち出す必要はない」などと述べられていますが、意識高いの定義を変更した上で、それを言うのは議論のすり替えなのでは?「意識(の高低)」という対立軸は、当初の定義から観測として導き出された対立の軸ではありませんでしたか。

 

この記事はさておいても、UT-BASEのnoteはこの「意識高い」という問題がテーマの記事が多いようです。そもそも、なんで自分たちが「意識高い」集団だという自己認識を得たのか、そして、それによって学生らに忌避されているという分析をしたのか、私、気になります!

僕としては、記事たちで語られている対立的なものをそんなに感じたことないし、別に意識低いかもしれねいけど、意識高くても低くてもどっちでもいいし、なんでそんなこと気にしてんだろうなって感じはしはする。

一番の虚構は、UT-BASEが「意識高い」集団ってことでかっこわるいとか忌避されているという現実だったりしてね。

なんか書いてみたらクソ攻撃的な内容になっててすみません。心の調子が荒ぶりがちなんで許して。