陰として豪雨

理系浪人生の日記→理系東大生の日記

参拾弐話 Why Japanese !?

先日のチュートリアルで完成シリーズの教材配布がありました。

漢文のテキストに東大の過去問がかなり収録されているのですが、既に見たことあるのもちらほらあります。漢文を二次試験で課す大学が少ないので仕方ないのかもしれません。

今日は、現代文の対策について、というより現代文という科目について思ったことを書きます。そもそも現浪問わず、現代文の指導というものは受けたことがなく、その意味で地に足の着いた話ではないということを断っておきます。

先日の東大模試を受けて、現代文ももちろん自己採点したりしたのですが、模範解答がなかなか受け入れがたく、何を言ってるのか一見してわからないものでした。模試の現代文の「質」というのはしばしば批判されるものであり、もはや僕自身それで河合や駿台の作問者に憤りを覚えているという訳でもないのですが、それでもそういった指導がまかり通っているのは不思議な感じがします。ネット上での受験生の評価や、あるいは東大模試を受けた友人の感想をみるに、かなり多くの受験生が不満を持っているのはたしかだと思われます。そもそも、現代文以外の科目は、解答をするのにある種の技術を要し、その技術を十分習得していない受験生が文句をつけることは難しいということ、そして多くの場合、解答が客観性の高い記述方法で求められていること、すなわち、数学的記述をする場合や可能な解答パターンが単語や記号などで限定されているということがあるので、現代文への批判は目立ちやすく盛り上がりやすいということが言えます。しかし、ネット情報では、プロの現代文講師間、しかも同じ塾の同僚間でも現代文の解答あるいは問題作成には批判が絶えない様です。

現代文の題材となる文章の筆者も人間である以上は、というよりも自然言語を用いて表現している以上は、論理構造や主張の一貫性といったものは不完全なものであると思います。しかも、現代文の作問者はほとんどすべての場合において、筆者と異なる人物であり、文章における「正解」と問題における「正解」の間にも齟齬があってしかるべきです。

文章の意味は究極的には一意に定まるという考え方の下で指導をする講師もいるようですが、指導としての方便ならともかく、本気でそう思っているのだとすれば現代文に向いてないと思います。現代文の題材となるような文章の筆者は、普通の人と比べて明晰な論理を組み立てるのに長けていることが多いでしょうし、推敲も何度も行っているでしょう。それでも、筆者の特有な言葉の感覚、背景となっている知識といった他人には理解できない要素が、筆者の中で無意識に作用していることを考えると、筆者を含むすべての読み手は文章の意味を完全に確定することなどできないでしょう。まあ「リンゴが食べたい。」くらいの単文であれば、意味を確定することができるでしょうが。

そして、文章の意味が一意に定まるかどうかは実は重要ではないと思うのです。僕らの主張はふわふわしたゆらぎの中にあり、それは現代文の筆者といえどもきっと同じだと思います。文章を書き始めた筆者と文章をむすんでいる筆者の間にも、そのゆらぎの範囲での差異というものがあるはずです。文章によってはゆらぎとして許容できない範囲で主張姿勢論理のズレがある場合もあるでしょうが、そういうものは支離滅裂なものとして現代文の題材にはならないでしょう。そのゆらぎの範囲に入っていくのが文章を理解することであり、ゆらぎの範囲なら筆者と「同じ」ところにいなくとも別に構わないのではないでしょうか。そうはいっても、現代文という試験科目では解答を点数化して受験者を差別化しなければなりません。そうすると、何か「正解」めいたものがきちんとあって、それからの逸脱をある程度定量的に評価できるようになっているはずです。というかそうであってほしいです。

それに加えて、筆者と作問者の間のズレという問題もあります。作問者はおそらく複数人いて、そこそこまともな見識を持っている方たちでしょうから、筆者作問者間誤差は先述のゆらぎの範囲内だと言ってよいと思います。ただし、現代文において点数を決定するのは作問者サイドなので、その意味で筆者よりむしろ作問者の認識が優先するとも言えます。したがって、作問者の姿勢によっては、解答者がゆらぎの範疇にいても十分に評価されないということもあり得ると考えられます。

以上より、解答者は、作問者サイドに対してゆらぎの範囲内に到達しているということを示せれば十分であり、文章中に用いられている表現のあまり過度でない言い換えなどを適宜しながら、明示された論理を答案に再現するということができる限り推奨されると思います。これは、文中表現の表層的な継ぎ接ぎ解答であると判断される危険がありますが、一方で自分で踏み込んで解釈し一般化抽象化を過度に進めると、作問者のゆらぎに入らないという恐れがあると思います。また、作問者サイドが解答者の解答を読むのも読解であり、文中にないような表現を使うと作問者サイドの言語感覚とあわなくて理解してもらえないという可能性もあると思います。

一方の作問者は、明示的な情報の言い換えや軽い捨象、要約で解答できる問題を作るべきであり、「○○という言葉は△△を示唆しており」というような解説をされるような問題はあまり作らない方が良いと思います。あと、比喩表現に傍線を引っ張ってどういうことかと聞いておいて、「比喩表現を実体的な表現にイイカエるといった単純な設問ではない」とかいうのもどうかと思います。

自分が何を言いたいのか分からなくなってしまいました。


次回予告
答えがてんでばらばらのブツリとインゴウは駿台にこてんぱんにのされてしまう。
ソノダは2人の完璧なユニゾンを目指し、一計を講じた。
この次も、サービス、サービスゥ!